藤沢周平を知る
藤沢周平(本名:小菅留治/こすげとめじ)は、1927(昭和2)年12月26日、大雪の夜に、山形県東田川郡黄金村大字高坂(現鶴岡市高坂)に農家の次男として生まれた。
山形師範学校卒業後、湯田川村立湯田川中学校に赴任するが、3年目を迎える春に肺結核が見つかり休職。6年余の闘病の後、東京の業界新聞社に勤務し、会社勤めの傍ら小説を執筆する。
1971(昭和46)年「溟い海」でオール讀物新人賞、1973(昭和48)年「暗殺の年輪」で直木賞を受賞。1985(昭和60)年から1996(平成8)年まで11年間、直木賞選考委員をつとめる。
吉川英治文学賞、芸術選奨文部大臣賞、菊池寛賞、朝日賞などを受賞。1995(平成7)年、紫綬褒章受章。1997(平成9)年1月26日逝去。没後、山形県から県民栄誉賞、鶴岡市から特別顕彰が贈られた。
略年譜
1920's
1927(昭和2)年 誕生
12月26日 山形県東田川郡黄金村大字高坂(現鶴岡市高坂)に生まれる。
1930's 少年時代
1934(昭和9)年 7歳
4月 青龍寺尋常高等小学校(在学中に黄金村国民学校と改称。現鶴岡市立黄金小学校)に入学。
1938(昭和13)年 11歳
5年生。この頃、吃音に悩む。読書や作文の楽しみを知る。
1940's 教師の道へ
1940(昭和15)年 13歳
3月 青龍寺尋常高等小学校尋常科卒業。郡賞を受ける。
4月 同校高等科に進む。
1942(昭和17)年 15歳
3月 黄金村国民学校高等科卒業。
4月 山形県立鶴岡中学校(現山形県立致道館高等学校)夜間部入学。昼は鶴岡印刷株式会社で働く。
1943(昭和18)年 16歳
春、鶴岡印刷をやめ、黄金村役場の税務課書記補として働く。
1946(昭和21)年 19歳
3月 鶴岡中学校夜間部卒業。
5月 山形師範学校入学。
1949(昭和24)年 22歳
3月 山形師範学校卒業。
4月 山形県西田川郡湯田川村立湯田川中学校へ赴任。2年B組(生徒数25人)を担任。担当教科は国語と社会と英語。
前列中央が留治。
1950's 療養時代
1951(昭和26)年 24歳
3月 学校の集団検診で肺結核が発見され休職。
1953(昭和28)年 26歳
2月 東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)の篠田病院・林間荘に入院。
静岡の俳誌「海坂」へ投句。
1957(昭和32)年 30歳
11月 篠田病院・林間荘を退院。東京都練馬区貫井町(現練馬区貫井)に間借りし、業界新聞社に勤めはじめる。
1959(昭和34)年 32歳
8月 三浦悦子と結婚、東京都練馬区貫井町(現練馬区貫井)のアパートに住む。
1960's 「二足のわらじ」修業時代
1960(昭和35)年 33歳
日本食品経済社に入社。
1961(昭和36)年 34歳
11月 長男展夫、死産。
1962(昭和37)年 35歳
会社勤めの傍ら、この頃より「藤沢周平」というペンネームを使い、小説を執筆。高橋書店発行「読切劇場」「忍者読切小説」「忍者小説集」に作品を発表する。
1963(昭和38)年 36歳
2月 長女展子が生まれる。北多摩郡清瀬町(現清瀬市)に間借り。
10月 妻悦子死去。28歳。
1964(昭和39)年 37歳
8月 北多摩郡清瀬町(現清瀬市)都営中里団地に転居。オール讀物新人賞に応募をはじめる。
1965(昭和40)年 38歳
第26回オール讀物新人賞で「北斎戯画」が最終候補作となる。
第27回オール讀物新人賞で「蒿里曲」が第2次予選まで通過。
1966(昭和41)年 39歳
第29回オール讀物新人賞で「赤い月」が第3次予選まで通過。
1969(昭和44)年 42歳
1月 高澤和子と再婚。
1970(昭和45)年 43歳
1月 北多摩郡久留米町(現東久留米市金山町)に転居。
1970's 小説家として
1971(昭和46)年 44歳
4月5日 「溟い海」で第38回オール讀物新人賞受賞。
6月 「溟い海」が第65回直木賞候補となる。
12月 「囮」が第66回直木賞候補となる。
1972(昭和47)年 45歳
12月 「黒い繩」が第68回直木賞候補となる。
1973(昭和48)年 46歳
3月 「暗殺の年輪」を「オール讀物」昭和48年3月号に発表。本作品で「海坂藩」が初めて登場。
6月 「暗殺の年輪」が第69回直木賞候補となる。
7月17日 第69回直木賞を受賞(長部日出雄と同時受賞)。
9月 最初の作品集『暗殺の年輪』(文藝春秋)刊行。
初期の
作風負のロマン
初期の作品群では、「武家もの」「江戸市井もの」いずれも主人公が背負うやり場のない怒りや悲哀が色濃く描かれている。
「話の主人公たちは、いずれも暗い宿命のようなものに背中を押されて生き、あるいは死ぬ。」(『又蔵の火』「あとがき」より)
当時、藤沢周平は自分に巣食っていた鬱屈をひたすら小説に流し込んでいた。自身が「負のロマン」と呼んだ作品群からは、主人公たちの情念が切ないまでに読者に迫ってくる。
『暗殺の年輪』文藝春秋
1973(昭和48)年9月25日
『又蔵の火』文藝春秋
1974(昭和49)年1月30日
『闇の梯子』文藝春秋
1974(昭和49)年6月10日
『暁のひかり』光風社書店
1976(昭和51)年3月30日
1974(昭和49)年 47歳
11月 日本食品経済社を退社。
11月9日 丸谷才一、田辺聖子と鶴岡市主催の講演会で講演。
1976(昭和51)年 49歳
11月 東京都練馬区大泉学園町に転居。
12月 オール讀物新人賞選考委員となる。
中期の
作風明るさとユーモア
書くことで癒され、鬱屈からの解放を得た藤沢周平は、結末に救済の光が見える物語を紡ぎ始めた。ごく自然に入り込んできたのは「ユーモアの要素」だった。
「いま私が考えているのは、子供のころの私を、あれほどの熱狂に誘った小説の面白さということである。」(「一枚の写真から」より『小説の周辺』所収)
自身が「転機の作物」と語る「用心棒日月抄」から、ユーモラスで人情の機微に通じた会話、しがらみの中でも凛として生きる主人公たちが生まれ、作風の幅が広がっていった。
『用心棒日月抄』新潮社
1978(昭和53)年8月15日
『春秋山伏記』家の光協会
1978(昭和53)年2月3日
『橋ものがたり』実業之日本社
1980(昭和55)年4月25日
『春秋の檻 獄医立花登手控え(一)』講談社
1980(昭和55)年6月20日
1978(昭和53)年 51歳
10月 鶴岡市の母校、黄金小学校で講演。
1980's
1980(昭和55)年 53歳
10月 井上ひさしと山形市の文化講演会で講演。
後期の
作風円熟期へ
藤沢周平の時代小説は、人間の存在と愛を描き、作風は昇華していく。『海鳴り』では、中年男女の主人公たちの密通を描く中で、二人に情が移り、結末を当初の構想から大きく変える。
「そうしたのはあるいは私の年齢のせいかも知れない。むごいことは書きたくなかった。」(「『海鳴り』の執筆を終えて」より『小説の周辺』所収)
男女の愛のかたち、権力の盛衰、過去への振り返り、円熟期の作品からは、人間のもつ普遍的な哀歓への温かな感情がうかがわれる。
『海鳴り』文藝春秋
1984(昭和59)年4月15日
『風の果て』朝日新聞社
1985(昭和60)年1月30日
『たそがれ清兵衛』新潮社
1988(昭和63)年9月5日
『蟬しぐれ』文藝春秋
1988(昭和63)年5月10日
『三屋清左衛門残日録』文藝春秋
1989(平成元年)9月20日
『漆の実のみのる国』文藝春秋
1997(平成9)年5月20日
1984(昭和59)年 57歳
10月 慢性肝炎を発症、通院がはじまる。
1985(昭和60)年 58歳
直木三十五賞選考委員に就任(1996年まで)。
1986(昭和61)年 59歳
4月 『白き瓶』により第20回吉川英治文学賞を受賞。
10月8日 丸谷才一と鶴岡市主催の講演会で講演。
1987(昭和62)年 60歳
12月 家族と還暦を祝う。
1988(昭和63)年 61歳
2月 長女展子、遠藤正と結婚。
4月 山本周五郎賞選考委員に就任(1991年まで)。
1989(昭和64)年 62歳
10月 「月刊Asahi」主催の朝日新人文学賞選考委員に就任(1992年まで)。
11月 「江戸市井に生きる人々の想いを透徹した筆で描いて、現代の読者の心を摑み、時代小説に新しい境地を拓いた」功績により第37回菊池寛賞を受賞。
1990's
1990(平成2)年 63歳
1月 『市塵』により、第40回芸術選奨文部大臣賞を受賞。
1992(平成4)年 65歳
6月 『藤沢周平全集』全23巻(文藝春秋)の刊行始まる。月報に
自伝的エッセイ「半生の記」を連載。
1993(平成5)年 66歳
5月 松本清張賞選考委員に就任(1995年まで)。
11月 初孫浩平誕生。
1994(平成6)年 67歳
1月 1993年度朝日賞を受賞。受賞理由は「『藤沢周平全集』をはじめとする時代小説の完成」。
2月25日 第10回東京都文化賞を受賞。
4月 『藤沢周平全集』全23巻(文藝春秋)完結。
10月 鶴岡市からの名誉市民推挙を辞退。
1995(平成7)年 68歳
11月7日 紫綬褒章受章。如水会館の授章式に出席。
1996(平成8)年 69歳
3月 肺炎のため、保谷厚生病院に入院。
同月 国立国際医療センターに転院する。
7月2日 退院。自宅で連載「漆の実のみのる国」の結末部分6枚を執筆。
同月23日 国立国際医療センターに再入院。
1997(平成9)年
1月26日 死去。
3月8日 山形県県民栄誉賞を受賞。
5月11日 鶴岡市より名誉市民と同等に遇する特別顕彰が贈られる。